景観形成の舞台裏 : 江戸時代の建設許可と訴訟

争点は、表に見える門・塀・庇、堤防や道路の高さなどに集中し、
目に見えない構造強度などは問題とされなかった。

美濃国厚見郡岩地村の例:

建築を巡る訴訟 : 門・塀・庇の設置に関する村内派閥間の訴訟

道路を巡る訴訟 : 街道の嵩上げに関する村落間の訴訟

堤防を巡る訴訟 : 村落連合間の協調・対立を巡る訴訟


訴訟に現れる用語の意味・概念

「御願」 : 個人または村から役所への建設許可申請

「聞済」 : 役所からの建設許可

「御法」 : 文書によって通達された、役所からの規制

「村法」 : 人々の記憶として共有された、地元のルール

「訴状」 : 無許可普請を周辺が咎める場合、
       または建設計画に周辺が同意しない場合
       役所への訴え

「返答書」: 役所からの質疑に対する回答書

「口上書」、「口演書」:役所で当事者が論争する場合に用意された主張の概要書

「裁許状」: 役所から下された判決

「請書」 : 判決を受けた被告が、裁許を全文筆者した上で、
承伏し実行することを誓約

「取曖」(とりあい) : 役所が命じる示談。役所が、地元の事情に明るく
公平な立場の調停者(利害関係の少ない近くの村の庄屋など)を指名

「済口」 : 合意形成

「取曖済口証文」 : 示談により合意が成立した場合の役所への届け

「利解」 : 理をもって説得に当たること

「和熟」 : 対立している当事者が話し合いにより歩み寄ること

「内済」 : 役所の裁許に依らずに、当事者間の話し合いで合意が形成
され、紛争が解決した状態

「納得金」: 建設(堤防嵩上げなど)に伴い、不利益を被る周辺の村落に
支払われる補償

「助情金」: 建設に伴い、利益を受ける立場にありながら事業に参加
しない周辺の村落が支払う補償

 

いくつかの訴訟の事例

建築を巡る訴訟

 [元禄期] 安藤氏領地

 O氏の先祖、平七が門を建てた所、村の「頭分」衆から異議があり、話し合いにより、門は一代限りとし、破損しても修理しないこととなった。

[宝暦期] 天領となり代官が置かれた。

平七の子の文蔵の代になっても門は存置されていた。領主安藤対馬守が磐城に改易となったのを機に、庄屋忠治郎、忠六、百姓長左衛門の一類21人が、門を破壊した。村は天領となった。文蔵は代官に訴えたが、代官が頻繁に交代して裁許が長引き、千種代官のときに、裁許があった。破壊を行った庄屋2名は召し上げとなり、文蔵も「外百姓」の身分となった。

 [明和期] 笠松郡代

家作を巡る紛争に対処して、御触が出され、「往古検地の際の高請百姓を除いて、新規に門・塀・庇の普請をしてはならない」ことが定められた(御法と文書主義の始まり)。

[安永期] 下川辺御代官所

外百姓が、村法を無視して家作をしているため、O氏も、「相互方」として裁許なしに門を修復したところ、咎められ、取り払いを命じられた。O氏は、これを不服として、外百姓の家作を訴えた所、外百姓も庇の撤去を命じられた。裁許は、江戸の判断を仰ぐこととなり、公文書と御法を根拠とする判断が下された。

 [天明期] 大垣御預御役所

年寄と庄屋役が復活した。以後、村内の派閥対立の中で、相手の建築許可申請に関する拒否権が道具に使われるようになる。

 [寛政期] 大垣御預御役所

 O氏派の百姓が、A氏派の百姓の違法建築を訴え、取り払いを命じられた。

 [文化期] 再び安藤氏の領地となり、切通陣屋の所管となった。

 O氏派の庄屋が、A氏派の建築許可申請の取り次ぎを拒否したため、これをA氏が訴えた。役所は、これを話し合いで解決するように命じ、O氏は申請を取り次いだ。

 [嘉永期] 切通陣屋

 O氏派の大工が「又下」と称して許可を取り、実質的な庇を作った。これを見て、O氏の新宅の普請の建築許可申請を、A氏が取り次ぎ拒否した。これをO氏が訴えた。 O氏派も、A氏派の建築申請の取り次ぎを拒否していたため、A氏がこれを訴えた。話し合いによる解決が命じられ、曖昧な形で建築を容認する合意がなされた。

[安政期]切通陣屋

 O氏は、A氏の違法建築を発見し、これを訴えた。役所から取り払いが命じられた。対抗して、A氏はO氏の庇の取り払いを、「嘆願」した。O氏の無許可建築部分の取り払いが命じられた。

 [明治期] 笠松県庁の所管

 O氏の病死後、代替わりの申請を、A氏が取り次がなかった。O氏は、庇の建築許可を求めて「嘆願書」を出した。「和談」が命じられ、嘆願書は撤回された。話し合いの結果、門・塀・庇の建築は自由に行うことで合意した。

 関街道の畦溝と道の嵩上げを巡る訴訟

安永9(1780)年、高田村と蔵前村が岩地村を訴えた。

【訴状の内容】:関街道の西沿いの溝畦が最近盛り上がって来たため、安永7〜8年の大水の際に両村の田畑が水損を受けた。岩地村が、関街道に大量の笠置を行った。以前、安藤対馬守の時代にも、岩地村が行った笠置を訴え、削り落とすように裁許があった。再度の行為は不埒である。

【答弁の内容】:溝畦は昔からの高さである。街道の笠置は、近年流れ落ち、安永7〜8年の水害以来、街道の通行に支障があるため、やむを得ず行ったものである。以前の笠置は、元文2(1737)年二月、申請を行い、道奉行の見分の上行ったもので、その後笠置を削り落とした事実はない。

【役所の判決内容】:
(1)双方とも根拠に乏しいため、調査官を派遣し糾明した結果、溝畦について今回新規に盛り上げた部分は存在しない。
(2)そもそも高低が問題とはならない所であり、削り落としても岩地村に支障はなく、この畦が高くなると出水の際の支障となるため、少しは削り落とす必要がある。
(3)街道の中程から西の小道の所を基準に、それから南の畦の高い所を削り、定杭を立て、今後はそれより高くならないように心得ること。
(4)街道については、特別に低い場所があり、小雨の際にも通行に支障があるので、低い所については、左右の水田の水面から5寸高く築き、それより高い所は削り落とす。
(5)橋際の道長さ2間は、出水の際に水を開くために置き土を削り落とす。

 嘉永3年の洪水に際しての出動

 蔵前・細畑・領下・岩戸・北一色・前一色・岩地・水海道・下印食の各村に笠松役所から水防のための出動命令が下されたが、支流の境川通りにも難所ができ、水防にあたっていたため、結果的に出動しなかった。事後、笠松役所から糾明があり、村々から、出動できなかった理由について申し開きを行った。その中には、野一色村の人足・村役人が出動したが、返された、と聞いたという内容の答弁も含まれている。

 境川築堤を巡る訴訟

 この一帯の村落には、水防を巡る利害関係から、いくつかの村落連合が存在していた。
(1)山平四ケ村:岩地村、前一色村、北一色村、(岩戸村)
  水下村々:助情金を出した村々:岩地村・前一色村・北一色村・岩戸村
(2)川並五ヶ村=往還筋五ヶ村:高田村、蔵前村、切通村、細畑村、領下村
(3)川向九ヶ村:中嶋村をはじめ、尾張藩領の村々
(4)高田堤組合:高田村、蔵前村、岩地村、前一色村、北一色村
(5)蔵前村より領下村まで四ヶ村御堤:蔵前村・切通村、細畑村、領下村

 嘉永6年訴訟:

 寛政年中に、中嶋村が土手の取払いを命じられたにもかかわらず、これを存置し、更に嵩上げした。 このため、蔵前村堤外畑、高田村堤東田畑が難渋した。また、高田村の西堤が弱くなることが予想された。
  そこで、蔵前村と高田村から、中嶋村に抗議するに際して、水下の村々に誘引があった。 ところが、山平四ヶ村の話し合いの結果、上記の西堤が弱くなることは予想されず、訴訟に費用をかけても勝訴の見込みがないと判断し、協力を断った。
 山平四ヶ村は、笠松村が新規築廻をするにあたり、障方納得金を受けている。
 そこで、蔵前村と高田村が、以前の組合を根拠として、山平四ヶ村が協力しなかったことを訴えた。【判決の内容】伊藤嘉右衛門が御世話人となり、示談が命じられた。話し合いの結果、相当と思われる「助情金」を拠出することで和解が成立した。

 安政の訴訟: 

高田村西堤から領下村までの堤防普請を川通五ヶ村が計画した。これに対して、川向村々から抗議があった。川向村々でも大層な堤普請を目論んだ。そこで、川並五ヶ村が、川向村々を相手取って訴訟するにおいて、山平四ヶ村に協力するよう誘った。四ヶ村の内、一村だけこれに応えたが、残り三ヶ村は協力に応じなかったので、川並五ヶ村が三ヶ村を訴えた。
 伊藤嘉右衛門が調停し、示談が行われた。 三ヶ村から、以下の内容の嘆願書が提出された。
(1)高田村西堤については、従前通り出資する。
(2)領下村までの堤普請に関する訴訟には、連願するが費用負担はしない。
(3)先年の義理があるので、一件落着してから、見舞金を拠出する。
 これに対して、切通役所から、三ヶ村が組合を離れることはならないが、費用負担において甲乙を付けるように裁決が下され、(野一色村庄屋)沢田五郎兵衛、境要右衛門が立入り、更に示談が行われた。安政二年に、諸費用については、10両につき往還五ヶ村が7両2分、山平四ヶ村が2両8分の割合で拠出することで合意した。