ミニ調査レポート No.104. 旭川市の除雪区域

このコーナーでは、出張等により収集した現地調査情報を報告します。

旭川市の市街化調整区域の現況

現地調査(101217)

羽田発千歳経由旭川空港行きの航空機からは、旭川市周辺(市街化調整区域)の農地(主に水田)が、格子状に整然と区画されているのが見える。 特徴的なのは、そこには固まった集落が存在せず、農家は短冊形の農地の区画の端に道路に面して並んでいることである。 旭川市では、調整区域における除雪の財政負担が課題となっているという。 そこで、調整区域における農家を数軒訪問し事情を聞いてみた。
長井さん(元勤め)
先祖は農家だが私はサラリーマン。今は退職し少し畑をしている。 この辺の農家は2.5〜3.5ha程度の規模。町内会は道の両側で50戸程度。共栄には3の町内会がある。 今では農業をしている人は1/3程度で、勤め人が多い。専業農家に農地を委託している。 斜め向かいの渡辺さんは、受託して大規模に経営している。また、その先の渡辺尚之さんは元農協の理事も務め、昔のことに詳しい。
渡辺保さん(専業農家)
3月に保さんが亡くなる。孫二人が大規模営農。今日は空港の除雪。
渡辺尚之さん(専業農家)
純粋農家。70代現役。農協理事など。 ここに入居したのは四代前。明治41年。その後 場所は変わっていない。二回、圃場整備があり。高さの調整を行う。 パイプラインではまだない。9俵/反×30ha(売値にして90万円/ha)程度。 農作業は3月から10月まで。11月から2月までが冬場。空港の除雪の仕事がある。 工場や会社などに就職すると、夏場・農繁期にも勤めなければならず、農業ができなくなる。その点除雪は冬場だけなので好都合。 農地は、大規模経営する農家が受託することで維持されていくだろうが、住宅は空家となって荒れるのではないか。 将来について考えるような場は地元には今のところない。 専業農家。70代現役。農協理事など。ここに入居したのは四代前。明治41年。その後 場所は変わっていない。二回、圃場整備があり。高さの調整を行う。パイプラインではまだない。
水田の収量は9俵/反(売値にして90万円/ha)程度。農作業は3月から10月まで。11月から2月までが冬場。空港の除雪の仕事がある。工場や会社などに就職すると、夏場・農繁期にも勤めなければならず、農業ができなくなる。その点除雪は冬場だけなので好都合。農地は、大規模経営する農家が受託することで維持されていくだろうが、住宅は空家となって荒れるのではないか。将来について考えるような場は地元には今のところない。

歴史に関する追記(101222)


「suido-ishizue.jp」に、屯田兵による上川地方の開拓と、明治29年の植民区画についての解説がある。
これによると、札幌郊外の琴似に始まった屯田兵による開拓は、10間×15間の宅地で構成される集落の周囲に耕地が広がる構成であったが、上川地方においては、30間×150間の区画(住宅+耕地)による開拓が行われた。これを10戸毎に道路を設けて格子状とし、道路の両側に宅地、その背後に耕地という空間構成にしたという。 更に、こうした屯田兵村を島状に残しながら、明治29年に発布された規定に基づく植民区画が全道で展開された。幅10間の「基線」、幅6〜8間の「線」、幅4間の「号」にそれぞれ番号が付けられた道路が建設され、300間四方を中区画として、その中の100間×150間(約5町歩)が各戸に配分された。
この屯田兵村の区域は、現在の地図と照合すると、東旭川駅周辺に対応している。

東旭川駅に近い旭川神社には、「屯田兵資料館」「(財)旭川兵村記念館」があり、資料展示が行われている。
WEBサイト(www.asahikawajinja.or.jp/keidai/tondenhei.shtml)によれば、 上川では、明治23年9月20日に旭川、永山、神居の3村が設置され、明治24年に永山村(現永山)に400戸、明治25年に旭川村(現東旭川)に400戸、明治26年に永山村字当麻(トオマ)に400戸、合計1200戸が入植した。
以後10〜20年かけて、森林(大きなものは径1.5-1.8m)を伐採し、開拓を行った。明治37年に屯田兵制は廃止された。その間に日露戦争に出兵している。

古い造酒屋である高砂酒造の土蔵に「新旭川停車場附近土地連絡図」という地図が展示されており、この中に300間四方のブロックを、2×10に区画割りしたブロックが描かれている。この規格は、上記の屯田兵村の30間×150間という区画規模に対応するものである。
この地割は、新旭川駅から南にかけての現在の市街地とよく一致する。
また、10分割の地割に概ね対応するブロックも現存している。

共栄付近の空中写真(101226追記)

空中写真
共栄付近の空中写真を見ると、270m余りの奥行の耕地+宅地の区画が並んでいる。この長さは概ね150間に相当する。しかし、上記の記述にある、道路に面した間口は全般に100間よりも小さく、明治29年の道の区画基準(100間×150間、約5町歩)よりは間口が狭い規模の区画が並んでいることになり、長井さんの話にあった、2.5〜3.5haという各戸の面積に概ね対応している。
これらのことから、訪問した「共栄」の区域は、屯田兵村の計画とも、その後の明治29年に全道に施行された区画基準等に基づく計画とも異なっているものの、共通する300間ないしその半分の150間という大きな区画は認められる。その後数度実施された耕地整理・圃場整備を経て現在に至っていると考えられる。

歴史に関する追記2(140123)

国土地理院が所蔵する、陸地測量部による迅速測図が、旭川周辺に関して残されており、概要は同院のWEBサイトから閲覧可能である。

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Last updated : 2014/1/23 9:40:59
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