奥尻島復興資料(三次元アーカイブス)

鯛取昭和30年代:奥尻村市街明細図より

集落の形成・災害・復興を3D空間に記録保存します。

活動内容

・資料の収集...三次元空間を復原するために有用な資料を収集・デジタル化・保存します

・三次元データとしての保存...資料をもとに作成した三次元データを3D空間の中に配置し検索・閲覧します

目的

・生活環境と風景の意味...過去の災害や復興との関係において町角のありふれた事物の意味を解説します

・災害の記憶の継承...数百年先とも考えられる次の災害の再来を越えて、記録を保存し伝えます

このサイトについて

・2012年4月から...2013年7月まで、資料の収集と三次元データの構築に関する情報蓄積・共有に使用

・2013年7月以降...
 原資料と復原した町並のデータを奥尻町のホームページに移管
 二次資料と三次元アーカイブスを道の機関に移管
 本サイトには、奥尻を一例として写真の位置比定・編年や三次元化に関するノウハウを蓄積



都市形成史・災害史年表

                                                                                   ※出典を[文献番号]で表記
・寛永17(1640):駒ケ岳噴火による降灰、一時無人化[1]
・享保9(1724):神威岳噴火、島内南部に多くの被害[1]
・寛保元(1741):7月、松前大島が噴火し、本島に降灰[1]
・明治34(1901):千畳地区に16戸が入植[1]
・明治37(1904):10月27日、戸長役場が失火により全焼[1]
・明治42(1909):A月、茶津尋常小学校で失火[1]
・大正3(1914):6月20日、青苗火防組合結成[1]
・大正4(1915):6月、奥尻森林防火組合結成[1]
・大正4(1915)年10月13日:集中豪雨による水害[稲穂小学校記録]
・大正12(1923)年9月16日:豪雨により幌内法面の山が崩落[10]
・昭和7(1932)年12月30日:青苗大火[2]
・昭和14(1939)年1月5日:猛吹雪、波浪、浸水家屋20数棟[10]
・昭和18(1943)年8月10日:機雷爆破作業で民家・小学校に被害[稲穂小学校記録]
・昭和22(1947)年10月1-2日:稲穂で竜巻[稲穂小学校記録]
・昭和29(1954)年9月26日:洞爺丸台風により稲穂小学校大破[稲穂小学校記録]死者4[10]
・昭和30(1955)年7月3日:豪雨、土砂崩壊、死者4[10]
・昭和35(1960)年1月5日:強風、高潮[10]
・昭和36(1961)年7月26日:豪雨、崩落、全壊2[10]
・昭和37(1962)年8月3日:台風9号[10]
・昭和38(1963)年5月27〜28日:奥尻大火、149世帯が全焼[1]
 →災害復興土地区画整理事業4ha(詳細史料あり)
・昭和38(1963)年9月16日:集中豪雨(死者・不明9名、全壊30棟)[10]
([稲穂小学校記録]では、9月3日)
・昭和43(1968)年頃:青苗緑ケ丘団地計画案昭和43年、寒地住宅第5集所収
 →翌年度にまたがる事業費800万円余昭和43年6月、広報おくしり50号
・昭和47(1972):12月1日、異常低気圧による高波が襲い、住家、道路、河川、漁船などに大きな被害[1][10]
・昭和49(1974):4月1日、檜山広域消防組合発足[1]
・昭和56(1981):9月3〜4日、台風18号から変わった低気圧により奥尻全島が集中豪雨災害[1][10]
・昭和57(1982):烏賊が大漁[1](註:大地震津波の前に烏賊が大漁となる、という説がある)
・昭和58(1983)年5月26日:日本海中部地震(津波により青苗地区で死者2名、全壊5棟、被害13億余)[1]
 →防潮堤(高さ4.5m)設置、低地から高台への避難路増設
 →原子力再処理工場誘致問題調査委員会条例の廃止を求める直接請求署名運動
・昭和59(1984):群発地震[1][10]
・昭和62(1987):8月31日〜9月1日、台風12号から変わった低気圧による強風・高波で被害11億余[1][10]
・平成5(1993)年7月12日:北海道南西沖地震、死者行方不明198[1][10]
・平成16(2004):9月7〜8日、台風18号災害[1][10]
緑ヶ丘団地計画図(昭和43年)

緑ヶ丘団地計画図(昭和43年)[文献3]

人口推移グラフ

人口推移グラフ[文献11より作成]


1993年7月12日、北海道南西沖地震被災状況


人的被害状況(平成5年6月末)
死者行方不明者重傷者軽傷者
町民149263686297
町外者23014744
合計172265093341

住家被害統計(平成5年6月末)
全壊半壊一部損壊床上浸水床下浸水
棟数3478882747111,410
世帯数442881,12647111,714
人員1,2422762,254148383,958
※上記2表は、文献2:第8章の表8.1、表8.2を再掲

地区別世帯数と人口(平成5年6月末住民基本台帳)、および被害状況
世帯数人口全半壊世帯数全半壊率人的被害備考
青苗地区4961,298324戸65.3%105人焼失189棟
稲穂地区??41戸70.7%32人
宮津地区4111033戸12.9%8人
球浦地区??24戸42.9%3人
奥尻地区???5 %?宿泊施設で死者多数
松江地区??38戸90.5%32人
揚浜地区??9戸63 %6人
合計1,805戸4,711人(530戸)26 %198人
※上記1表は、文献2:第3章および第8章の記述から作成

奥尻島集落図[文献2第3章]

奥尻島集落図

奥尻町地区別被害状況[文献2第3章]

奥尻町地区別被害状況

1993年津波被災後の五区(平成5年)Photo by Kobayashi (1993.11.26)

津波被災後の青苗五区(平成5年)

流失範囲

1993年津波流失範囲[文献8]

焼失範囲

1993年津波焼失範囲[文献8]


復興過程

以下は、文献[2]所収、西山論文による(一部、野島論文で補う)。
@区画整理手法の検討期
平成5(1993)年
・7月13-15日:道庁職員が建設省へ出向き、復興区画整理検討の指示を受ける
・7月18日:第一次仮設住宅100戸着工→7月27日:完成、入居
・7月23日:「復興区画整理」の方針を決定→8月9日:完成、入居
・7月25日:第二次仮設住宅100戸着工
・7月30日:第三次仮設住宅100戸着工→8月14日:完成、入居
・8月17日:仮設住宅残り30戸着工→8月27日:完成、入居(合計330戸)
A復興計画の策定期
・8月2日:道庁で第一回災害復興支援プロジェクトチーム打合せ
(可能な限り高台移転を前提に検討)
・8月30日:奥尻町長が青苗部分移転構想表明
・9月11日:合同慰霊祭
・9月24日:道庁が奥尻町に第一次案を提示:全戸高台移転案(A). 一部高台移転案(B)
・10月1日:奥尻町災害復興対策室設置
・10月19日:町が第一次案を住民に初めて提示
・11月22日:奥尻町議会で一部高台移転案を承認、
 住民説明会で住民は一部高台移転案を了承
・12月19日:第二次案を道庁が奥尻町に提示(C)
・12月20日:第二次案を奥尻町議会で承認
B復興事業手法の検討・決定期
・8月18日:奥尻町長が岬地区80戸の全面移転を表明
・10月9日:被災者が「奥尻の復興を考える会」を設立
・10月28日:住民説明会で、青苗岬地区の集団移転促進事業が決定
・11月:青苗臨海地区の漁業集落環境整備事業の検討開始
・12月:奥尻町は青苗臨海地区の復興を漁業集落環境整備事業で行う意向を固める
平成6(1994)年
・1月:北海道庁と建設省区画整理課が、青苗臨海地区の事業手法として、区画整理を最終的に再検討
・2月:青苗臨海地区の防潮堤が6mと決定
・2月22日:災害復興区画整理は行わないことを決定
・4月に第二次案を町が修正し、第三次案を作成(D)
C土地買収と復興事業の開始期
・6月:青苗臨海部の盛土が始まる。翌年3月末まで。
・6月10日:第5回災害対策特別委員会が開催され、資料として第三次案が出る。
・7月:民宿、商店の一部が復興基金により高台に移転。臨海地区の中心商店街形成のための町の働きかけは不調に終わる。
・8月19日:青苗岬地区の集団移転促進事業の認可
・9月:復興基金を利用して青苗高台地区に移転し家を建てた人が40人以上
・10月末:臨海地区の65%の用地買収契約済。再定住は100人に減少。敷地割は未確定。
平成7(1995)年
・1〜2月:青苗臨海部の宅地割完了(予定)
・2月:岬地区(5区)の移転先であるビーコン跡とA団地の宅地造成完成(予定)
・3月:青苗臨海部の盛土完成(予定)

主要なインフラ・公共建築物とその建設年代

                                                                                   ※出典を[文献番号]で表記
・元和3(1617)年:空谷大仙寺(青苗)[1]
・天保2(1831)年:言代主神社を青苗に創立[1]
・安政6(1859)年:幕府が釣懸村東風泊に番所、青苗村にオットセイ奉行を設置[1]
・元治元(1864)年:釣懸流刑所新設[1]
・明治2(1869)年:稲穂に鎮守鴎崎神社、幌内に薬師神社建立[1]
・明治5(1872)年:釣懸村に官立病院、函館支長遠(ママ)郡奥尻出張所設置[1]
・明治12(1879)年:釣懸・赤石・薬師・青苗の4ケ村戸長役場を設置、真宗大谷派順行寺
   が茶津に建立[1]
・明治15(1882)年:美の歌神社(6月)、奥尻小学校(12月5日開校式)[1]
・明治17(1884)年:久遠警察署奥尻分署設置(5月)[1]
・明治19(1886)年:奥尻郵便局[1]
・明治22(1889)年:稲穂灯台起工(明治24年竣工・点灯)[1]
・明治23(1890)年:奥尻小学校青苗分校、茶津分教室[1]
・明治25(1892)年:第四奥尻小学校(赤石)、菰澗分教場設置[1]
・明治29(1896)年:第五奥尻小学校校舎新築(菰澗)[1](註:後の稲穂小学校)
・明治30(1897)年:檜山営林区署奥尻林務駐在所(鈴懸村)、大谷派説教所[1]
・明治32(1899)年:函館司法事務所奥尻出張所設立→昭和24(1949)年:法務局に改組
   [都市美協会報告]([1]では、江差区裁判所奥尻出張所)
・明治33(1900)年:東風泊〜久遠郡平田内海底電線[1]
・明治34(1901)年:青苗尋常小学校校舎改築[1]
・明治37(1904)年:青苗郵便物受取所設置[1]
・明治39(1906)年:奥尻村役場(戸長役場を改称)、青苗巡査派出所[1]
・明治40(1907)年:水産組合北海道連合会奥尻水産組合(鈴懸)[1]
・明治44(1911)年:茶津尋常小学校校舎新築[1]
・明治45(1912)年:奥尻礦山株式会社、幌内教育所[1]
・大正5(1916)年:鈴懸〜青苗間電信線、釣石尋常小学校新築(塩釜9番地)[1]
・大正7(1918)年:釣懸〜青苗間の道路開削[1]
・大正8(1919)年:青苗尋常小学校校舎改築、菰澗尋常小学校校舎新築[1]
・大正10(1921)年:長浜〜武士川間1里12町の道路、警部補派出所、宮津巡査駐在所・
   幌内巡査駐在所[1]
・大正12(1923)年:武士川〜東風泊坂間1里10町の道路[1]
・大正13(1924)年:檜山水産会奥尻支部、帝国水難救済会奥尻救難所[1]
・大正15(1926)年:畝本久四郎が自家用の水力発電を塩釜川に設置、茶津尋常小学校校舎改築[1]
・昭和3(1928)年:東風泊〜茶津坂下間の道路開削[1]
・昭和5(1930)年:奥尻漁協青苗支所[1]
・昭和6(1931)年:茶津〜勘太浜間の海岸道路6,900m延長、徳洋記念碑[1]
・昭和7(1932)年:青苗船入澗起工[1]
・昭和8(1933)年:北海道水産物検査所奥尻派出所、青苗派出所[1]
・昭和9(1934)年:乗合自動車運行、青苗船入澗附属埋立地起工、釣懸船入澗竣工[1]
・昭和10(1935)年:青苗埋立地竣工、電話通話事務開始[1]
・昭和14(1939)年:北方産業株式会社無縁島礦区(亜炭礦)[1]
・昭和15(1940)年:稲穂尋常小学校校舎[1]
・昭和17(1942)年:青苗に北海道興農公社が工場設立[1]
・昭和19(1944)年:奥尻国民学校講堂と2教室新築[1]
・昭和22(1947)年:青苗船入澗の拡張5カ年計画着手[1]
・昭和23(1948)年:稲穂岬正規気象観測所[1]
・昭和24(1949)年:青苗中学校校舎新築、松江・赤石に簡易郵便局[1]
・昭和26(1951)年:奥尻中学校校舎新築、鍋釣発電所、富士川発電所、青苗発電所稼働[1]
・昭和27(1952)年:稲穂発電所稼働、奥尻に公民館設立[1]
・昭和28(1953)年:宮津小学校、宮津公民館、赤石公民館[1]
・昭和29(1954)年:稲穂公民館、奥尻幼稚園、奥尻中学校講堂、青苗公民館
   青苗岬の岬台起工[1]
・昭和31(1956)年:松江公民館、青苗簡易水道[1]
・昭和32(1957)年:ロータリービーコン方位信号所竣工、球浦小学校開校
   奥尻簡易上水道建設[1]
・昭和34(1959)年:航空自衛隊基地[1]
・昭和35(1960)年:奥尻・青苗・赤石・松江・東風泊 僻地保育所[1]
・昭和36(1961)年:ホヤ石川発電所稼働[1]
・昭和37(1962)年:大岩生発電所稼働[1]
・昭和39(1964)年:東風泊に船揚場新設[1]
・昭和40(1965)年:奥尻公民館、奥尻第一発電所、青苗の漁業表通信施設と干場[1]
・昭和41(1966)年:奥尻港東堤防波堤灯台完成・点灯[1]
・昭和42(1967)年:町製氷冷蔵庫(青苗地区)、奥尻第一発電所、フェリー奥尻丸[1]
・昭和43(1968)年:室津島の太陽電池灯台[1], 緑ケ丘団地開発
   [昭和43年6月、広報おくしり50号]
・昭和44(1969)年:町総合研修センター(青苗)[1]
・昭和45(1970)年:中学校統合校舎(旧:奥尻中,宮津中,稲穂中)、青苗地区に展望台、奥尻地区にごみ焼却炉[1]
・昭和46(1971)年:コウライキジ養殖センター、東風泊、富里に僻地保険福祉館[1]
・昭和47(1972)年:稲穂岬北方照射灯[1]
・昭和48(1973)年:電気事業法の改正により電気施設の北海道電力株式会社への移管、青苗小学校校舎、
   奥尻小学校校舎、自動車整備施設[1]
・昭和49(1974)年:奥尻空港開港、ターミナルビル建設[1]
・昭和50(1975)年:町立国保病院、奥尻電話交換局、ゴミ焼却炉[1]
・昭和51(1976)年:北海道立江差高等学校奥尻分校、青苗平磯地区に大規模増殖場(アワビ)
   神威脇地区に生活改善センター、賽の河原に休憩施設[1]
・昭和52(1977)年:奥尻港駅旅客上屋建設、道道奥尻島線神威脇〜幌内間着工[1]
・昭和53(1978)年:奥尻町開基100年記念
  (式典、望郷の碑、町民憲章、記念映画製作など)[1]
・昭和54(1979)年:町民グランド、し尿処理センター、灯油備蓄施設、野菜貯蔵施設、
   赤石自治振興会館[1]
・昭和55(1980)年:青苗研修センター、魚采市場、奥尻漁協貯氷冷蔵施設、防災行政無線、
   神威脇地区電話工事、球浦自治振興会館、つりかけ沢橋、漁協の総合加工処理施設[1]
・昭和56(1981)年:青苗中学校校舎、医師住宅[1]
・昭和57(1982)年:彫刻「北追岬」[1]
・昭和59(1984)年:ファミリーパーク、歴史民俗資料館、神威脇〜幌内間道路3,604m[1]
・昭和60(1985)年:総合葬祭場、青苗〜大成町間海底ケーブルを光ファイバーに[1]
・昭和61(1986)年:なべつる岩の補修[1]
・昭和62(1987)年:奥尻高等学校新校舎、北追い岬公園の石彫「回天が原」「神威流」、
   稲穂岬灯台の電波灯台局、勘太浜自治振興会館[1]
・昭和63(1988)年:青苗幼稚園、町民センター、宮津大橋[1]
・昭和64(1989)年:「タイムカプセル・うにまる」記念碑[1]
・平成2(1990)年:地熱開発調査[1]
・平成3(1991)年:特別養護老人ホーム「おくしり荘」、東風泊自治振興会館、
   うにまる街路灯、奥尻橋[1]
・平成4(1992)年:廃棄物混合処理施設[1]
・平成5(1993)年:米岡自治振興会館、うにまるパークセンター、うにまる公園、
   灯油備蓄施設(復旧)[1]
・平成6(1994)年:新生ホール・青苗、奥尻商工会館(復旧)、稲穂小学校新校舎(復旧)、
   奥尻港フェリー岸壁(復旧)、フェリー旅客ターミナル、
  奥尻農協事務所・店舗・集落センター(復旧)、国土地理院奥尻験潮所(松江漁港)、
  観音山大壁画(SUMOON)[1]
・平成7(1995)年:江差港湾建設事務所奥尻分駐在所(新装)、奥尻島復興記念碑、
   製氷貯氷冷凍冷蔵施設(復旧)、奥尻21世紀復興の森[1]
   伊勢神宮式年遷宮に伴い解体された別宮・月讀宮古材で、青苗言代主神社を再建[神社新報]
・平成8(1996)年:青苗地区漁業集落排水処理場、海洋研修センター、宮津小学校新校舎[1]
・平成9(1997)年:国民健康保険病院青苗診療所(復旧)、稲穂夕なぎ会館(復旧)、
   賽の河原公園・慰霊碑、松江地区慰霊碑、奥尻地区慰霊碑、初松前自治振興会館[1]
・平成10(1998)年:北海道南西沖地震奥尻島慰霊碑「時空翔」、奥尻空港滑走路延長着工決定[1]
・平成11(1999)年:あわび種苗育成センター[1]
・平成12(2000)年:平成球島の丘、青苗漁港人工地盤「望海橋」、赤石川防潮水門、
   奥尻島津波館[1]
・平成13(2001)年:青苗川防潮水門[1]
・平成14(2002)年:奥尻クリーンセンター、球浦〜武士川間下水道、ごみ処理施設[1]
・平成15(2003)年:奥尻港湾新灯台、新奥尻空港滑走路開放イベント[1]
・平成16(2004)年:奥尻空港新滑走路1期部分供用開始(800m)、
   新奥尻空港ターミナルビル[1]
・平成18(2006)年:奥尻空港新滑走路2期部分供用開始(合計1500m)、
   奥尻町ホームページ(リニューアル)[1]

史料目録(空間情報に関するもの)

・明治35(1902)年頃?:植民区画図(火災のため焼失:法務局での聞き取り1993)
・大正7(1918)年:土地連絡図(法務局)
→(国総研にモザイクコピーあり。1993年時点で地籍図として使用されていた)
・昭和16(1941)年:地番改正調書
・昭和30(1955)年:開拓地確定測量図(1:2500)
・昭和30年代:奥尻村市街明細図(町役場・稲垣氏)
・昭和43(1968)年頃:青苗緑ケ丘団地計画案(昭和43年、寒地住宅第5集所収)→画像
・昭和43(1968)年頃:緑ケ丘宅地造成事業確定測量図(町役場)
・昭和44(1969)年:緑ケ丘団地の写真(広報おくしり66に掲載・稲垣氏)
・昭和56(1981)年:青苗市街図(町役場・稲垣氏)
・昭和58(1983)年:青苗岬被災地写真、キーマップ(寒研、日本海中部地震被害調査)
・昭和60(1985)年11月:空中写真(要確認)
・平成2(1990)年10月29日:空中写真(三和航測株式会社撮影、要確認)
・平成3(1991)年:奥尻町戸別明細図(国総研に原本1枚あり。住宅地図に相当するもの)
・平成5(1993)年8月:空中写真(要確認)
・平成5(1993)年:被災前現況図(1:2500,空中写真1985,1993に基づく。国総研に全体コピーあり)。
・平成5(1993)年11月26日:被災現場ステレオ写真(国総研にネガあり)
・平成6(1994)年3月30日:北海道庁復興対策室の計画図写真(国総研にネガあり)
・平成7(1995)年12月26日:復旧状況調査写真(国総研にネガあり)
・平成13(2001)年:数値地図50mメッシュ(国土地理院)
・

復興計画図

(第一次案) ・高台移転計画案→画像
・一部高台移転計画案→画像
(第二次案) ・奥尻町青苗地区まちづくり復興計画素案→画像
(第三次案) ・奥尻町青苗地区まちづくり復興計画平面図(案)→画像
・防災集団移転促進事業計画平面図→画像
・青苗地区漁業集落環境整備事業計画平面図→画像


文献目録

[1]「奥尻町のあゆみ」(町のWEBサイト所収。奥尻町史に基づく)
[2]「北海道南西沖地震復興過程に関する調査研究」(平成7年7月、都市防災美化協会)
[3]「漁村の住宅」寒地住宅第5集(昭和43年,北海道建築指導センター)pp.42-49
(緑が丘造成計画図、青苗の写真を掲載)
[4]大沢昌玄・岸井隆幸「災害復興土地区画整理事業の実態」
(図−1に、「奥尻火災復興1964, 4ha」を掲載)
[5]越村俊一・萱場真太郎「1993年北海道南西沖地震津波の家屋被害の再考−津波被害関数の構築に向けて−」
(日本地震工学会論文集第10巻第3号、2010)
(JODC発行500mメッシュデータ、津波直後に奥尻町が作成した1/500地形図、津波前の航空写真1990を使用)
[6]小野智明「北海道南西沖地震(奥尻島)からの復興経過と関連する研究成果」
(巻末の文献目録は、北海道南西沖地震の復興に関する61文献(一部重複)を収録している)
[7]廣井ほか「巨大津波と避難行動」−奥尻島青苗地区で何が起こったか−北海道南西沖地震調査報告(1)
(月刊消防 1993.12)
[8]建設省建築研究所「平成5年北海道南西沖地震被害調査報告」
(建築研究資料No.82)
(津波被災範囲と焼失範囲の図がある)
[9]奥尻町教育委員会「奥尻島青苗遺跡」(1981)
(遺跡周辺の地形図に住宅外形、図版編にカラー写真を収録)
[10]奥尻町「奥尻町過去の災害 主要災害発生状況」(町のWEBサイト所収)
[11]奥尻町「新・奥尻町史」(上・下2冊)(上1997.11.28, 下2003.2.28)
[12]国土交通省都市局まちづくり推進課「まちづくりにおける地域の担い手に関する実態検討調査(復興まちづくりにおける担い手)」(2011.12)
(pp.4-13に、過去の震災関連事例として、奥尻の復興を考える会の活動が報告されている)


コンピュータによる町並の復原と記録保存のコーナー

以下は、各種史料に基づいて作成した三次元データです。

景観シミュレータをセットアップした状態で、 sim をクリックすると、三次元表示で様々な視点から確認することができます。

表示テストsim→セットアップが成功していれば、「工事中」の三次元データが表示されます。
このとき、開くアプリケーションを尋ねてきたら、景観シミュレータを選択します。
以後、青字の部分をクリックすると景観シミュレータが起動し以下のような風景・市街地の中を動き回れます。

詳細はヘルプの8.セットアップ
景観シミュレータのダウンロードはこちら


1.奥尻島の地形の作成

まず、国土地理院の数値地図・標高から、奥尻島全体の地形を作成します。 残念ながら、奥尻島に関してはまだ、50m格子の標高のデータしかありません。 大都市圏や、東日本大震災被災地、太平洋岸地域に関しては既に詳しい測量が行われています。

sim 奥尻島全体の地形
平面 鳥瞰 写真3

以下は、三次元の地形から、古写真の撮影位置を推定したものです
青苗港付近 同じ位置の古写真


3Dデータ作成範囲図
市街地データ作成範囲

2.市街地B(臨港地区)の復原
奥尻島に関して、残念ながらまだレーザースキャナを用いた詳細な地形データは作成されていません。
しかし、残されている古いステレオ空中写真などから解析を行い地形データを作成することも可能です。→解説
まず、被災前の市街図から等高線を拾い、これに基づいて地形を作成する、という古い手法を使ってみました。
一方、現在までに収集された被災前の古写真の殆どは、位置を特定することができました。
この内、3点(No.2, No.7, No.9)が集中し、かなり連続的にかつての状況が分かるエリアを「B地区」としてまず復原します。
元図 1:2500市街図(B地区)
simB地区の詳細地形
地形データ

臨港地区の地盤は、緑ヶ丘団地のある高台のすそ野から海岸にむかってなだらかに傾斜していました。 このため、南の法隆寺周辺の標高が高い一角は浸水を免れていますが、ここで古写真から復原する区域は、 津波のあとの火災で焼失してしまいました。復興事業では、全体を約6mに嵩上げし、ほぼ平坦な地形になりました。 現在では、道道の東側が高い擁壁による段差になっています。

sim古写真の民家(B地区)

古写真2 古写真9

民家J旧 民家J新

祭の風景 祭の風景

以下は、古写真に写っていた看板などの点景を取り出したものです。

sim古写真の点景(B地区)

以上のようにして再現した民家を、地形、地盤、道路と共に合成すると、昔の生活環境を再現することができます。
但し、現状はまだ、住宅の並びなどがようやく解明できただけの、素描の段階です。
今後、古写真などが更に集まり、昔話などを加えていくと、空白が埋まり、より正確な復原が行えると期待しています。

sim被災前のB地区市街地状況(今後、古写真があつまると更に町並がつながっていく期待が...)

B地区平面
B地区CG
3.岬地区(五区)の市街地復原
青苗岬の付近(五区)は、1983年日本海中部地震でも津波被害を受けました。当時の寒研が被災状況を調査しています。
その際に撮影された記録写真は、位置を復原することができました。→詳細はこちら

sim市街図と航空写真の照合

sim写真集

sim復原できた住宅の場所案内図

simいくつかの写真の視点から復原した町を見ます

青苗五区の市街図(下図)

五区下図

青苗五区の地形

五区地形

青苗五区の配置作業用下図

五区地形 五区市街図+空中写真

五区 写真2_5付近

C2_5視点 C2_5視点

五区 写真2_11付近

C2_11視点 C2_11視点

五区 写真2_E付近

C2_E視点 C2_E視点

2012年8月27日にこれらの成果を地元で中間報告しました。
その後追加された古写真により、五区のメインストリートの両側の殆どの住宅に関して、
画像データが残されていることがわかりました。→詳細
五区俯瞰

sim復原した住宅群を見ます


4.復興計画と、復興された町並
1993年震災直後から、様々な計画案が検討され、結果的に現在の町並が復興しました。
(第一次案)

sim 計画案A(全て高台移転)(図中ニュータウン2と周辺地形を三次元化)

下図A[寒研資料] 復興報告書掲載図A[文献2第3章]

計画案B(一部高台移転)(図中ニュータウン2と周辺地形を三次元化)

下図B[寒研資料] 復興報告書掲載図B[文献2第3章]
A,Bともに、緑ヶ丘団地(昭和43年開発)を北に拡張したニュータウン1と、
空港脇のニュータウン2を大規模に開発する計画
(第二次案)
-->

計画案C(一部高台移転)(米岡災害公営住宅周辺を三次元化)

下図C[寒研資料] 復興報告書掲載図C[文献2第3章]
青苗遺跡付近(ニュータウン1→A)は規模縮小し遺跡公園を残す
(この案の集会所予定地には、災害公営住宅新生第二団地が後に開発されます)
米岡付近(ニュータウン2→B)も災害公営住宅以外は規模縮小
壁山を高台整地してニュータウンCとし、削った土で沿岸部の防潮堤の内側を嵩上
ビーコンを撤去し、望洋台団地を開発する
法隆寺周辺の焼け残り地区も除却して嵩上げ造成する
(第三次案)

計画案D(一部高台移転)(ほぼこの案が今の町の姿)

下図D[寒研資料]
法隆寺周辺の焼け残り地区は街路の海側のみ除却し高台側は残す案
下図G[道庁資料1994.3]
岬の移転跡地に、記念公園、地震資料館、下水処理施設が描かれている
漁港施設等のインフラが描かれている
住宅地に近接していた滑走路はその後平成16年に北に拡大移転し住宅地からは離れる
幻の全戸高台移転計画Plan-A (作業中)
奥尻島に関しては、2〜10mメッシュ精度の地形DEMがなく、また復興事業の中で大規模な地形の改変も行われたため、
1993年当時の市街図から等高線を拾い、地形データを作成します。
sim地形の上に団地の範囲を整地(アナログな古地形図からの昔懐かしい三次元化手作業) 計画図と市街図の位置合わせ

1:2500市街図(右が真北)の画像から、1.5×1kmの長方形の区域を切り出して、同じ大きさの板に貼ります。 次に、計画図を別の板に貼り込みます。この2枚の板を合わせることで、計画上のニュータウンの位置が割り出せます。 初期の計画案A(全戸高台移転)と、計画案B(一部高台移転)では、いずれも多くの住宅が高台に必要となるため、 緑ヶ丘団地の北側のニュータウン1と、空港の東側のニュータウン2が大規模に計画されています。
実施の段階では、これらにかわって、元のビーコンのあった場所の望洋台団地と、壁山を崩したニュータウンCが開発され、 初期の大きな団地は縮小されましたが、災害道営住宅の米岡団地と新生第二団地が建設されました。
図中に赤く塗られた区域があり、このころから道営住宅の構想があったことがわかります。

俯瞰 A西団地 A東団地 平面
データ形式の変換と、高台整地機能等の適用

古地図の等高線から手入力して作成された地形データに対して、 近年の被災地で作成されているレーザースキャナを用いた地形データを用いた処理を行うために、 データ形式の変換を行った。

手順:
(1)5mメッシュで標高を抽出する
(2)三角形で分割した地表TINを作成する
===ここから後は、最近の数値地図標高DEMを用いた作業と共通です===
(3)底面と側面を付けたソリッドに変換する
(4)団地の外形を入力する
(5)高台整地機能により切土・盛土を行い、周囲の法面を生成する
(6)整地面、法面にマテリアル・テクスチャを施工する
(7)団地の内部構成を仕上げる(道路、住宅、公園)
(8)フライオーバー、ウォークスルー等のプレゼンを行い、動画を作成する
古地図の等高線から手入力した地形

(1)5mメッシュで標高を抽出する→詳細

5mメッシュ標高の抽出

(2)三角形で分割した地表TINを作成する

TIN

(※後で、空中写真を貼り込むと、わかりやすくなる)   

(3)底面と側面を付けたソリッドに変換する→詳細

側面底面

(4)団地の外形を入力する→詳細

団地の外形

(5)高台整地機能により切土・盛土を行い、周囲の法面を生成する→詳細

聖地 聖地

(6)整地面、法面にマテリアル・テクスチャを施工する

聖地

sim 閉じた地形から高台整地の図形演算を実行する過程(画面左下の右向きボタンで、過程を辿ります)

(7)団地の内部構成を仕上げる(道路、住宅、公園)→詳細

米岡

sim 米岡災害道営住宅

(8)フライオーバー、ウォークスルー等のプレゼンを行い、動画を作成する


2013年時点の現況(三次元化作業を検討中)

奥尻町史には、自然現象としての地震・津波と被災状況については詳しく解説されていますが、
復興計画と再建過程、その結果については、主に口絵の写真で記録されているのみです。
完成後の現状は、以下のようになっています。→現状マップ
・実施されたC団地の道路(現況)は計画図と配置が異なる
・緑ヶ丘の北側、遺跡公園の西側には、災害公営住宅「新生第二団地」が建設された
  (計画案Dでは、「集会所」が予定されていた)
・臨港地区は、元々は緩傾斜地であったが、ほぼ平坦に造成された
  (道道は車道幅員8mの両側に歩道が付き、その他は幅員6m)
・海に面した2ブロックの上に人工地盤(望海橋)が設けられ、高架道路で造成面と接続された
・最も古くからある高台への斜路に屋根が懸けられて、ドーム型歩道となった
  (上った先の正面には、緑ヶ丘の青苗支所・体育館、消防署、交番の施設がある)
聖地

Photo by Kobayashi (2012.8.27)


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