10_4b.玉川野下町公園付近

ゴルフ場→内務省研究所→公園+都営アパートと変遷した例です。

緯度経度 緯度経度

建研初期の研究者の出身

建築研究所30年のあゆみ(p.4)座談会「研究の今昔」に、初期の所員の出身母体が整理されています。 内務省防空研究所の出身者が、初期の第一研究部(住宅・都市部門)の母体となっています。 新海悟郎氏が初代、入沢亘氏が二代の第一研究部長でした。
西忠雄氏は、第二研究部(材料)に所属し、後の北大の先生でした。
建築研究所に残るSD会の寄せ書き色紙の中心に西忠雄の名前があります。

民族史

地図で見る旧内務省防空研究所の敷地

一六のルーツである内務省防空研究所は、現在の世田谷区玉川野毛町公園付近にありました。

昭和12年

昭和12(1937)年の地図には、ゴルフ場が描かれています。昭和6(1931)年に目黒蒲田電鉄が開設した「等々力ゴルフリンクス」です。 ゴルフ中の中央に「野毛大塚古墳」があり、明治30(1897)年に発掘調査が行われています(後藤守一「東京府下の古墳」1936)。 その後、昭和14(1939)年に、このゴルフ場を政府が買収して内務省防空研究所が設置されました。

昭和20年

昭和20年頃には、研究所は廃止され、土地の多くは更地状態でした。
中央の古墳の標高はゴルフ場時代と同じで、クラブハウスのような建物もそのままです。

昭和38年住宅地図

昭和38年頃には、玉川野毛町公園(グランド)と建設省官舎になっています。

野毛(世田谷)[wiki]に、以下の解説があります。
現存しない施設: 等々力ゴルフリンクス - 玉川野毛町公園と、そこに隣接する国土交通省住宅、都営住宅の敷地は、戦前、目黒蒲田電鉄の経営する「等々力ゴルフリンクス」というゴルフ場であった。等々力駅前のゴルフ橋はその名残である。1931年にオープンしたが、戦争の激化により1939年に政府に買収され、内務省防空研究所が置かれた。戦後、この土地は現状のように三分割され、今に至っている。

平成元(1989)年から公園整備のため大塚古墳の学術調査が行われています。

大蔵省営繕課建築研究室(mini127から再掲)

・大蔵省営繕管財局議院建築材料試験室(議事堂構内で日本産の石材、木材の悉皆調査、竹山談)
・昭和10(1935)年:建築研究所を創設する構想(藤田談)
・昭和14(1939)年:内務省防空研究所創設(等々力)
(建築研究所と主計局で競合)
・大蔵省営繕管財局に建築研究室を設置(工学士4名)
・大蔵省営繕課が等々力の園芸学校に疎開(現在の都立園芸高等学校は、内務省防空研究所から北北東に1.6km)
・建築研究室は、山梨県相興村に疎開
・終戦後、大蔵省の庁舎は接収され、最小限の機材を兜町証券取引所に退避
・建築研究所の設置を構想し、下記の候補地を調査し、陸軍第7研究所跡地を選定しました(20年史、竹山回顧録)
−海軍施設部研究所(沼津)
−海軍技術研究所(目黒)→機械試験所→オーストラリア軍
−陸軍造兵廠工員宿舎跡(大蔵省職員宿舎)
−陸軍科学研究所跡
・[30周年記念アルバムp.7]に、"等々力にあった技術院養成所の玄関"の写真(1948)

資料等

[1]「内務省防空研究所彙報 第一号 昭和18年7月」の全文が、国立国会図書館の近代デジタルライブラリから公開されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062956

・所長 中澤誠一郎による巻頭の辞には、昭和14(1939)年7月3日に、
「防空に関する研究及講習並に防空資材の検定に関する事務」を行うため設置、と書かれています。
・報文執筆者には、後の建設省建築研究所職員となる碓井憲一氏が含まれています。
−小宮賢一・碓井憲一「セメント・ガンに依る壁体施工試験報告書」
−小宮賢一・碓井憲一「簡易防火庫に関する実験」
−浜田稔・碓井憲一・内田祥文「名古屋市火災実験報告」
−小宮賢一・碓井憲一「川口市火災実験温度及輻射熱測定結果報告」
−小宮賢一・碓井憲一「飛火による発火の小実験」
これには、続編である第2号、第3号があり、東京大学工学部土木学科の図書室に所蔵されています。 巻頭言がなく、所長名や発行年は未詳です。

中澤誠一郎氏について

1920年:東京大学建築学科卒[2]
1931年時点:愛知県土木部建築課長[3]
1932〜39年:大阪府建築課長[c]
1939年:内務省防空研究所設置[1]
1939年頃:大阪駅前火災実験[a][d]
1940年時点:内務省計画局第二技術課長[b]
1941年:内務省計画局を防空局に再編[4]
1943年時点:内務省防空研究所長[1]
1958年時点:大阪市立大学[5]
1965年時点:中沢建築設計事務所[6]
1968年:古希[7]

[2]東京大学工学部建築学科の卒業生名簿によると、大正9年の卒業生で、 同級生にはお茶の水の聖橋で有名な山田守がいます。関東大震災の復興に活躍した世代です。

[3]日本建築学会東海支部設立45周年略史によると、1931年の同支部設立に際 して、愛知県土木部建築課長として発起人に加わっていま す。

[4]大阪毎日新聞1941.9.6によると、この時計画局を防空局に改め、土木局を 国土局に改めています。 この頃の資料(朝鮮半島関連などもあり)は、旧土木研究所図書室を引き継いだ 国総研図書室に若干残っています。国会図書館の分館で、司書がお り、コンサ ルタントなどがよく閲覧に来ています。

戦後の雑誌「住宅」にも、中澤誠一郎氏に関係する記事が2点掲載されています。 [5]1958年12月号 pp.24-29 『近畿住宅問題会議』の第一課題として、大阪市立大学教授・中澤氏が「都市再開発の問題点」という問題提起を行っています。
p24 p25 p26 p27 p28 p29
[6]1965年1月号 pp.8-9 『先輩の言葉』として、中沢建築事務所長中沢氏が「都市計画の曲がり角(考へ方への提案)」という短い寄稿を行っています。
p8 p9

[7]1968年に「中沢誠一郎先生古希記念都市論文集」が出版されています(現 物未確認)

最近の文献等

[a]初田「都市不燃化の時代−東京に先駆けた大阪の都市不燃化運動−」(まちなみ2009.2)に、 大阪駅前火災実験のことが記載されています。

[b]阿部・西村・窪田「戦前における内務省地方計画構想の一終着点−地方計 画法案・関東地方計画要綱案の策定過程に着目して−」(都市計画 論文集Vol.46 No.3, 2011.10)の表−1に、中澤誠一郎委員(1940.5.21-)の名があり、「内務省 計画局第二技術課長・技師、都市計画中央委員会幹事」となって いるので、防 空研究所との関係は要確認です。

[c]東工大のサイトから公開されている論文.pdf 「戦前の大阪緑地計画の策定過程とその特質」(尾崎、斉藤、推定2012)に、中 沢氏の大阪府時代の活動が言及されています。 大阪府では、田園都市論やグリーンベルトによる領域限定を避け、都心を核に幹 線道路や鉄道に沿って放射状に都市を発展させ、間に緑地を配する都市開発論を 提唱し実践しており、かなり国土計画的なスケール感の人だったようです。

[d]BLつくば第13号(2012年)の特集記事 「住宅部品に必要な外力の算定根拠の調査」 において、以下の中沢論文2編が引用されています。 「大阪駅前火災実験の結果に就いて」(1939) 「改正防空建築規則と防火改修規則に就いて」(1942) 戦後の建築基準法(防耐火性能試験に用いられる標準加熱温度時間曲線)の中に も足跡を残しています。

地図資料等

・明治・大正・昭和東京1万分1地形図集成、柏書房
・戦災復興期東京1万分1地形図修正、柏書房
・航空住宅地図帳(S40-57,名称には途中若干変化あり)
-S40,42,45:全住宅案内地図帳
-S47:全航空住宅地図帳
-S50:東京都航空住宅地図帳
-S51,53,57:航空住宅地図帳
-S59:航空住宅地図
・ゼンリン住宅地図(H8-14)